神戸学院大学には明石に関するさまざまな古資料が所蔵されています。そのなかから今回は「明石人丸神社盲杖桜絵図」をご紹介しましょう。
江戸時代から明治時代にかけて、柿本神社の神徳を伝えるために作られた資料だと思われます。

昔筑紫に盲人あり。はるばる此社に詣て ほのぼのとまこと明石の神ならば 我にも見せよ人丸のつか
かくなんよみければ、たちまちふたつの眼ひらき、始て物をみる事を得たり。盲人こよのふよろこびて、かゝれば力とたのみこし杖は用なきとて、広前にさし捨さりぬ。しかるに其杖より枝葉生茂りくる。春毎に花咲ぬれば、名付て盲杖桜とぞいふ。
これも、以前ご紹介した「播州明石郡忠度塚縁起」と同じく、一枚刷りと呼ばれる形式の印刷物です。下部の余白を中心としてあちこちに不要な墨が付いています。文字の部分も線が途切れがちで、拡大すると版木の状態がかなり荒れていることが想像されます。左隅に「社務所印」という印鑑が押してありますが、これは本文とは別に押したもので、版木に彫り込まれたものではありません。「社務所」という言葉は1874年、教部省が「今後一般某神社社務所と相唱へ申すべし」という布達を出してから使われはじめたものですから、この「明石人丸神社盲杖桜絵図」は版木そのものは江戸時代に彫られたものながら、神戸学院大学が所蔵しているのは明治以降に刷られたものということになります。
版木はたいへん長持ちするものですから、このように版木が彫られた時期と、その版木を使って実際に印刷が行われた時期に大幅なずれが生じることもあります。もちろん版木を彫ればすぐにそれを使って印刷を行い、本なり、一枚刷りなりを発行するわけですが、長期的な需要が見込まれる印刷物はその後も版木を大切に保管し、必要に応じて少部数ずつ二刷、三刷と印刷を行うのが普通です。おそらくこの「明石人丸神社盲杖桜絵図」は、明治になってもまだときどきは版木を引っぱりだしてきて刷り増しをするような、息の長い印刷物だったのでしょう。神社の配り物で、あまり営利的な品ではなかったことが幸いしたのかもしれません。一般に同じ版木を使った印刷物でも、後刷りになると版木の荒れや反り、収縮が目立つようになるので、版面を丁寧に見比べると、ある程度は判別が付くようになります。また、「埋め木」といって誤植や不穏当な部分を削って、新しい木をはめ込み、部分的な修正を施したりすることもあります。印刷物であっても、その時々にしたがって、少しずつ内容が変化してゆくのが、昔の資料のおもしろさです。
盲杖桜はいまでも柿本神社の社殿に残っていますが、こうした伝説の背景には『古今集』に収められた伝柿本人麻呂歌「ほのぼのと明石の浦の朝霧に島隠れゆく舟をしぞ思ふ」が大きく影響しているのでしょう。「ほのぼのと」(かすかに、ぼんやりと)や「明石」(「明し」、つまり「眼が見えるようになる」という意味に通じる)といった言葉が、眼病を治癒するというイメージにつながったのだと思います。元来、和歌の神であった人麻呂が、より庶民的な利益神へと変貌してゆく過程が窺え、柿本神社の歴史を考える上で興味深い資料と言えます。
神力、法力によって、杖が木となり、花を咲かせるという説話は、日本各地に見られるもので、柿本神社にかぎらず、背景に民俗的な信仰を持つものでしょう。柳田国男は『日本の伝説』「驚き清水」のなかで、こうした説話を「杖で地を突くと清水や温泉が湧き出た」という類型と結びつけ、元来は子供の姿をした神にまつわる伝承であったと論じています。湧出する清水や温泉と同じく、杖から桜の花が咲くのは生命力の暗示であるに違いありません。盲杖桜の逸話は、神が奇跡によって人間に生命力を与える存在であるという認識を示すものであることは確実であり、そうした物語をひろめることでさらに人々の信仰心を高め、また物語をひとめることそのものが信仰であるといった考えたにもとづいて、この一枚刷りが作られたのでしょう。