神戸学院大学には明石に関するさまざまな古資料が所蔵されています。そのなかから今回は「播州明石郡忠度塚縁起」をご紹介しましょう。

明石市内には平家の武将・平忠度の遺骸を葬ったとされる「忠度塚」が残されています。また、討ち死にの際、切り落とされた忠度の片腕を埋めた「腕塚」も残っています。この「播州明石郡忠度塚縁起」はそうした忠度関係の遺跡、特に忠度塚の由緒(縁起)を記した資料です。江戸時代のなかごろ、おそらくは十八世紀半ばの明石で作られたものではないかと考えられます(『古典籍総合目録』などでは、明石藩に仕えた儒者・梁田蛻巌(1672-1757)の著述としていますが、その根拠は不明です)。
「播州明石郡忠度塚縁起」は一枚刷りと呼ばれる形式の印刷物です。文章を木の板(版木)に彫り、墨を乗せて刷った簡易な印刷物で、書物の形にはなっておらず、現代のチラシやリーフレットに相当します。比較的かんたんに作成でき、必要に応じて長く低コストに刷り増しできるので、商業ベースに乗りづらい配布物を作成する際などに活用されました。「播州明石郡忠度塚縁起」の場合は、忠度塚を訪れる人たちのための解説・宣伝資料として、半ば自費出版的に作られたものではないかと思われます。
版面を見ると、文字が生硬で、余白に必要のない墨の刷り痕が付着し、文字の線が途中で切れていたり、墨乗りにムラがあったりして、印刷物としての仕上がりが悪いという印象を受けるかもしれません。しかし、じつはそれが貴重なのです。文字が生硬なのは、版木を彫る技術が十分でないからです。必要のない墨が余白についているのは、版木のサラエ(余白をくぼめて彫ること)が徹底できておらず、刷りの技術にも問題があるからです。こうした印刷技術の未熟さは、出版物の需要が乏しい地方都市で非商業的に制作された刷り物であることを示唆します。つまり、技術の低さは明石製であることの裏返しでもあるのです。
また、文字の線が途中で切れたり、墨乗りにムラがあるのは、彫りの問題だけでなく、版木の経年劣化が原因である可能性が高いでしょう。木版は長期間、版木を保存しているうちに反りや割れ、ヒビが生じてしまうため、それが刷りに影響するのです。つまり、ここから「播州明石郡忠度塚縁起」がかなり長いあいだ、配布・販売されていたであろうことが推測できます。版木を長く使うことができているわけですから、1回あたりの印刷枚数は大したものではなかったでしょうが、少部数を何度も何度も繰りかえし刷っていたに違いありません。きっと息長く需要を保ちつづけた「チラシ」だったのではないかと思います。
資料の内容は、以下の通りです。
播州明石郡忠度塚縁起
正四位下薩摩守忠度主は人王八十代高倉帝、安徳帝の朝に仕へし人也。遠くその祖を尋るに、人王五十代桓武帝第五の皇子葛原の親王十一代の孫、刑部卿忠盛の第七男、母は院の女房也。平家都落のとき、帝に供奉して津のくに一谷に楯こもり、西の手の大将軍として源氏をふせぐ。我利なうして一門の人々讃岐の八島におもむく。忠度主もおなじく落たまひしに、武蔵国の住人岡部六弥太忠澄が為に終に此所にてうたれたまふ。于時文暦元年二月七日。御齢四十一歳也。里人其遺骸を此所におさめ、しるしに松を植置、幾年か星霜を経たりしに、前城主源忠国朝臣、佳名の朽んことを哀しみ、石碑を造立ありて後世にしらしむ。初忠澄が郎等に腕を斬落されたまふ所に土を封じ松を植、腕塚となづく。又この上の溝を続によんで両馬川とす。抑忠度主は熊野育にて、大力早業の誉あり。そのうへ和哥の道にも疎からず。斯る繚乱の際迄も嗜たまへり。
故郷花 さゝ波や志賀の都はあれにしをむかしながらの山ざくらかな 没後千載集ニ入
旅宿花 行暮て此下陰を宿とせば花やこよひのあるじならまし 戦死の時箙に付られたり
石面歌 今はたゞのりのしるしに残る石の苔にきざめる名こそ朽せぬ 源忠国朝臣
この資料には、ほかにも有益な情報が潜んでいます。江戸時代の印刷物はふりがなを多用する傾向がありますが、この刷り物もほとんど総ルビに近い形式になっています。そのなかで「両馬(りやうば)川 」というふりがなが注意を引きます。
両馬川は現在でも明石市内を流れており、地域の方々のあいだでは、忠度が岡部六弥太と組み討ちをした場所(実際には異説あり)としてよく知られています。以前、講演をした際、何気なくこれを「りょうば(がわ)」と読んだところ、参加されていた地元の方から「わたしたちは子供のときから『りょうまがわ』と呼び習わしています。史跡としての説明板も『りょうまがわ』とふりがなを振っています」と教えていただきました。
その後、ずっと気になっていたのですが、十九世紀の『播州名所巡覧図絵』という本にも「りやうば」というふりがながあり、この「播州明石郡忠度塚縁起」でも「りやうば」となっているところを見ると、どうやら江戸時代には「りょうば」という言い方が普通だったようです。
このように、古い資料は制作時の意図・目的とはまた違った部分で、貴重な情報を後世に伝えてくれることもあるのです。