地域研究センターの中村健史准教授が明石しごせんロマン塾で講演を行いました

 2026年9月16日(水)、大蔵コミュニティ・センターにおいて明石しごせんロマン塾第68講「大蔵谷の歴史と稲爪神社」が開催され、地域研究センターの中村健史准教授、本学人文学部の小野明日香非常勤講師が講演を行いました。

 今回の講演は、8月18日(火)に矢嶋巌教授が行った「町家『明石ハウス』から見える、大蔵地区のいまとこれから―神戸学院大学人文学部地域研究センターの14年間の取り組み―」の続篇として行われたもので、明石ハウスにおける地域連携の「核」ともいうべき稲爪神社の秋例大祭について、その歴史的経緯をご紹介したものです(※矢嶋教授の講演に関しては記事末のリンクをご参照ください)。

 はじめに中村准教授が大蔵谷の歴史について解説した後、小野講師にバトンタッチし、明石ハウスでの取り組みを紹介しました。小野講師は2025年度から明石ハウスで勤務し、戦後間もないころに撮影された稲爪神社の秋例大祭の写真を展示・管理する業務に携わっています。その経験から、秋祭りの写真が持つ意味についてていねいに解説を行いました。

明石ハウスでの取り組みを紹介する小野明日香非常勤講師

 次いで再度中村准教授がマイクを握り、稲爪神社の秋例大祭の由緒や伝承を紹介。そうした伝承が生まれてきた経緯を、さまざまな資料を使いつつ解説しました。大蔵地区では稲爪神社の秋祭りが地域の人々を結びつける重要な意味を持っています。講演の途中では、聴衆として参加された大蔵地区の方から秋例大祭の神幸行列について飛び入りで解説いただくなど、会場は非常に活気につつまれ、和気藹々とした雰囲気のなかで講演を終えることができました。40人を上回る聴衆の方々にご参加いただいたことは、地域研究センターの取り組みが着実に実を結びつつあることを示すとともに、地域の方々の秋祭りに対する関心の高さをも物語っています。

稲爪神社について解説する中村健史准教授

 地域研究センターでは地域社会に開かれた一般向け講演を定期的に実施しています。あかし市民図書館と連携した催しも含め、今年度にも多数の講演会が予定されていますので、ふるってご参加いただければ幸いです(※記事末のリンクもご参照ください)。

 なお今回の講演に関しては、YouTube上で同内容の動画を視聴することができます

 【リンク】youtube

【講演要旨】

 大蔵(谷)は古くからさまざまな文献に登場する土地です。奈良~平安時代にかけては、現在の休天神のあたりに「明石の駅家」が置かれ、菅原道真が立ち寄ったことで知られます。鎌倉時代の終わりには、隠岐に流される後醍醐天皇や、多々良浜の戦いに敗れた足利尊氏も大蔵谷を通っており、街道沿いの重要な土地であったことがうかがえます。江戸時代になると、大蔵谷は西国街道の宿場町として発展し、旅の途中、さまざまな人が訪れています。かの有名な弥次さん、喜多さんも『膝栗毛』シリーズのなかで大蔵宿に宿泊しています。

 このように由緒ある大蔵の地には、今なお、江戸時代の風情を漂わせる何軒かの家屋が残っています。神戸学院大学地域研究センターでは、そのなかの一つ「大塩邸」を拝借し、地域での活動拠点としています。現在、活動の中心となっているのは、戦後間もないころの稲爪神社 秋例大祭の写真を展示し、それを見ていただいた方に地域の思い出を語ってもらうという取り組みです。こうして写真を媒介にして個人の「思い出」や「記憶」を掘り起こし、記録することで、大蔵地区全体の「土地の記憶」を再現したいと、わたしたちは考えています。今日お集まりのみなさんも、ぜひ機会があれば明石ハウスを訪れてみてください。

 さて、この明石ハウスは大蔵八幡社という神社の前に建っています。大蔵八幡社は稲爪神社の秋例大祭で非常に重要な役割を果たす神社であり、神幸行列は稲爪神社を出た後、氏子域全体をめぐり、いったん大蔵八幡社に入ってから、稲爪神社へと再出発します。なぜなら、この大蔵八幡社に祀られている越智益躬(おちのますみ)は稲爪神社の伝説を考える上で、欠かすことのできない重要な役割を果たしているからです。

 稲爪神社の伝説は「稲妻大明神縁起」にまとめられています。「縁起」というのは、神社やお寺の由緒を物語風にまとめた読み物です。「稲妻大明神縁起」は江戸時代の1686年に書かれました。稲爪神社のような神社の縁起としては、ずいぶん新しいものですが、それには事情があります。奥書を見ると、「稲爪神社の縁起は古くから伝わったものがあったが、 1578年、織田信長が播磨を攻めたとき、高山右近が当社を焼きはらったので焼失した。 そこで『予章記』と伝承を基に縁起を新しく制作した」と書かれています。

 実際に「稲妻大明神縁起」を読んでみることにしましょう。前半は次のような物語です。

 第7代・孝霊天皇という天皇の子供に伊予王子(いよのみこ)という人がいました。彼は愛媛に行き、和気姫(わけひめ)という女の人と結婚し、三つ子が産まれます。三つ子のうち末っ子・三男の小千御子(おちのみこ)は伊予の国の主となり、子孫は越智氏という豪族になります。越智氏は鎌倉時代ごろから河野氏と名乗るようになり、武士として活躍します。越智氏・河野氏は氏神として伊予三島大社を大切に祭るようになりました。

 以上のような「稲妻大明神縁起」の前半部分の内容は、文章の細かな表現にいたるまで『予章記』をそのまま写したものです。

 『予章記』は14世紀の終わりごろ、一忍居士という人物が書いた本です。内容は、鎌倉時代、伊予を地盤として活躍した武士の一族・河野氏の歴史を描いたもので、歴史の本と言ってもいいでしょうし、軍記物語の一種と言ってもいいと思います。「稲妻大明神縁起」がなぜそのような本を資料として使ったかと言うと、伊予の河野氏はもともと越智氏を名乗り、伊予三島大社を氏神にしていました。そして稲爪神社は三島大社と同じ神さまを祭っています。つまり『予章記』に書いてある内容、特に古い時代の神さま関係の記録をそのまま写しておけば、稲爪神社の縁起として通用するだろう、と考えて、「稲妻大明神縁起」のなかに引用されたのだと思われます。

 今度は「稲妻大明神縁起」の後半の内容を紹介します。

 後半の主人公は小千益躬(おちのますみ)という人物です。小千益躬は伊与王子(いよのみこ)から数えて16代目の子孫で、時代としては推古天皇のころ、つまり600年代の前半に活躍した人物ということになっています。

 このとき「三韓」という国が日本を攻めてきます。三韓の兵士はたいへん強く、日本人はあわてふためきます。困った推古天皇は、益躬を大将に任命して三韓を追い払おうと考えました。益躬が氏神である三島明神に祈ると、夢のなかに神さまがあらわれて秘策を授けてくれます。その秘策というのは、益躬が偽って敵に降伏し、相手を油断させてから討て、というものでした。

 神のお告げを信じて、益躬は三韓の大将である「鉄人」に降伏し、三韓の軍勢とともに京に向かって進軍します。一行がちょうど明石の大蔵谷にさしかかったとき、稲妻が起こり、三島明神が出現します。鉄人の様子を観察していた益躬は、足の裏が弱点であることを発見し、そこに投げ矢を放って鉄人を倒します。益躬は大将を失った三韓の軍勢を滅ぼし、すべては三島明神のおかげであるということで、神に感謝するため大蔵谷に神社を建てました。これが現在の稲爪神社である、と縁起には書いてあります。

 「稲妻大明神縁起」の後半は、小千益躬と三韓との戦い、特に益躬が鉄人を退治する場面が中心になっています。じつはこの鉄人退治の話は、先ほど紹介した『予章記』のなかにも出てきます。ただし、まったくの同文ではありません。「稲妻大明神縁起」には『予章記』にない文章がいくつか含まれています。

 たとえば、益躬が鉄人を退治する場面。「稲妻大明神縁起」には、こんなふうに書いてあります。

鉄人も興に乗り、馬上で色々質問し、しばらく時間を過ごした。そのとき急に天気が変わり、雲が空をおおい、雨がたたきつけ、闇夜のようになって、稲光稲妻やむことなし。大闇谷おおくらだにの西から五色の雲が立ち上り、光り輝くなかに、矛ほこを持ち、馬に乗った三島大明神が、鳥とともに出現した。益躬は「ありがたい」と三度礼拝し、喜んだ。鉄人は進むべき方向が分からず、馬も足を止めてしまった。益躬は「鉄の体といっても肉身の部分はあろう」と思って、そばに寄って見ると、足の裏に目があるではないか。「神さまが教えてくれたのだ」とうれしくなって、隠し持っていた「掃鬼」という矢を投げたところ、鉄人の足の裏から頭まで通り抜け、馬上から転げ落ちた。益躬の家来・出江橋立(でえのはしだて)が走り寄って首を取った。

 『予章記』といったいどこが違うかと言いますと、まず『予章記』には三島明神が出てきません。益躬自身が鉄人の弱点を見つけることになっています。一方「稲妻大明神縁起」では、空が急に暗くなり、雨が降り、雷が鳴り響きます。やがてお供の鳥を連れ、馬に乗って、武装した三島明神が出現し、益躬はその姿を拝んで勇気づけられます。鉄人は天気が急に変わって、風雨がはげしくなったので、立ち往生してしまいます。まとめて言えば、神さまが出てきて、超人的な力を発揮し、鉄人退治を助けてくれた、ということが強調されているのです。

 このような「稲妻大明神縁起」と『予章記』の違いには、いったいどのような意味があるのでしょうか。

 はじめに説明した通り、「稲妻大明神縁起」の奥書には「『予章記』と言い伝えを基に縁起を新しく制作した」と書いてありました。ということは、逆に言えば、今、「稲妻大明神縁起」から『予章記』と重複する内容を引き算すると、残った部分が言い伝えの内容であるということになります。

 具体的に言えば、「大蔵谷で三島明神が出現し、超常現象、つまり天気の急変を起こして、鉄人退治を手助けしてくれたこと」「三島明神が稲妻や光とともに出現したので『いなづま(め)』神社という名前がついたこと」などが挙げられます。

 これらは、明石や大蔵谷といった地域の特色がよくあらわれていて、明石以外の地域で作られた話とは考えづらいところがあります。すでに触れたとおり、「稲妻大明神縁起」には『予章記』を丸写しした部分が多いのですが、いくら同じ神さまの話だからとはいえ、愛媛の歴史書である『予章記』を写すだけでは、稲爪神社の由来を語ったことにはなりません。明石や大蔵谷という土地にまつわるローカルな言い伝えと結びつくことで、はじめて稲爪神社の縁起と言えるのです。その意味では、「稲妻大明神縁起」と『予章記』のズレにこそ、大事な意味があるのです。

【各種リンク】

※8月18日に行われた矢嶋教授の講演の様子については、下記のリンク先の記事をご覧下さい。

 【リンク】地域研究センター研究員の矢嶋巌・人文学部教授が明石しごせんロマン塾で講演しました

※地域研究センターの催しに関しては、下記のリンク先の記事をご覧下さい。

 【リンク】2026年度大蔵谷ヒューマンサイエンスカフェの予定

9月27日(日)には、あかし市民図書館において三田牧准教授が講演「むら社会は時をかける―高度経済成長期の稲爪神社秋祭りから」を行います。

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