2026年9月27日(日)、「大蔵谷ヒューマンサイエンスカフェ・地域学講座」(神戸学院大学地域研究センター、あかし市民図書館共催)があかし市民図書館にて開催され、地域研究センターの三田牧准教授が講演「むら社会は時をかける―高度経済成長期の稲爪神社秋祭りから―」を行いました。

当日は、稲爪神社のある大蔵谷地域の人々も参加してくださり、地域社会のために働いてきたいきさつや、なぜ地域のためにがんばるか、を話してくださいました。また、稲爪神社と神戸学院大学人文学部の20年以上にわたる連携のきっかけについても話していただきました。講演会場の背後には秋祭りの写真も展示され、稲爪神社とそれを守る大蔵谷の地域社会、さらにこの神社と地域にお世話になっている神戸学院大学人文学部の関係性がよくわかる会となりました。

[講演要旨]
日本では、「むら」は人々の生活世界でした。多くの人はむらに生まれ、むらの神社の氏子として暮らし、むらで葬られました。明治以降、近代国家の成立とともに、人々は「国民」意識を持ちはじめますが、多くの人は土地に根付いて暮らし、むらは健在でした。むらが試されるのは、高度経済成長期です。この時期、人々は仕事を求めて都市に出、情報網の発達により人々の意識は中央に向かい、むらは存亡の危機に立たされました。本講演では、明石市大蔵谷の稲爪神社秋祭りを事例に、大蔵谷のむら社会がいかに高度経済成長期における祭りの危機を乗り越えたかを考えます。
稲爪神社の秋祭りは、西之組、中之組、濱之組、東之組の4つの地縁の組が中心となって実施してきました。かつては4つの組がまわり持ちで神輿と鳳輦の巡行を担い、宵宮ではそれぞれの組が芸を奉納してきました。西之組と中之組は獅子舞、濱之組ははやくち流しです。東之組は明治期までは獅子舞があったそうですが、その後は布団太鼓で神興行列に参加してきました。
1960年代、むらの外で働く人が増え、祭りが急激に衰退しました。そんな時、明石市政50周年(1969年)の舞台で大蔵谷の獅子舞を披露してほしいと頼まれ、西之組と中之組が合同で獅子舞をしました。このことを契機に、大蔵谷獅子舞保存会が結成されました。
1970年代に入ると、若者によって「青年団」が結成されました。彼らは盆踊りの企画・運営をきっかけに、運動会や獅子舞の継承、消防団など、活動を広げていきました。獅子舞については、保存会で年長者から舞いを継承しました。また、稲爪神社の神輿担ぎについても「やらせて下さい」と願い出て、三年目に許されたといいます。
同じ頃、30才代の人を中心に「ヤング大蔵」が結成されました。神輿担ぎを含めた祭りの運営、夜回り、清掃活動等、地域のために活動しました。それは青年団の活動内容と重なり、両者が潜在的にはライバルで、「地域のためになる仕事」を競って行ったことを示しています。青年団とヤング大蔵は、地域のために協同しそれによって絆を深めるという、むら社会の性質を有していました。一方、ヤング大蔵において「新住民」の取り込みを試みたがうまくいかなかったように、むら社会の閉鎖性が障害になることもありました。
1975年、明石市は「コミュニティー元年」を宣言しました。明石市コミュニティ研究会の「みんなで考えるまちづくり」(1974年)では、「伝統と慣習で組み立てられた」タテ社会から、「住民すべてが自由に参加し、平等に発言できる住民主体の合意に基づく自治活動=コミュニティ活動」によるヨコ社会への転換が呼びかけられています。そしてそのことによって、人は住んでいる町や市のよさを守り育ててゆく「市民」になるとしています[明石市編さん委員会 2001]。この文章では、むら社会は乗り越えられるべき前近代的なものと位置付けられています。確かにむら社会には閉鎖性がありますが、その一方で、地域のために協同しよりよい社会を作るという、この文章における「市民」としての働きをむらの社会集団は担ってきました。実際、大蔵谷ではむらのやり方で祭りが守られてきたのです。
2026年の秋祭りも近づいてきました。宵宮では西之組と保存会は獅子舞を、濱之組ははやくち流しを奉納します。現在、これらの会は決して閉鎖的ではなく、地域社会外の人にも開かれています。また、本宮では多くの人が神輿行列に参加します。神戸学院大学人文学部の学生も、献灯屋台と女衆神輿で参加させていただきます。今年も大蔵谷の人たちが守って来た祭りの姿を見ることができるでしょう。大蔵谷のむら社会は時を駆け、今日も健在なのです。
