2026年7月18日(土)、明石市内で行われた「まいあかし学会」に中村健史准教授が参加しました

 2026年7月18日(土)、一般財団法人 明石コミュニティ創造協会が主催する第2回「まいあかし学会」が複合型交流拠点ウィズあかしで開催され、地域研究センターの中村健史准教授(国文学)が発表者の1人として参加しました。

 まいあかし学会は、明石に関してさまざまな感心を持つ一般市民が参加し、「まいあかしネタ」の発表と相互の交流を通して地域文化の活性化を目指す企画です。昨年度、第1回が実施された際には、地域研究センターから矢嶋巌教授が発表者として参加し好評を博しました(https://card-kobegakuin.jp/activity-my-akashi-2025-11-08/)。

 今回、中村准教授は明石ハウス研究連携者 小野明日香氏とともに「休天神と石碑のなぞ」と題し、市内休天神社(明石天満宮)にある石碑について紹介を行いました。その概要は以下の通りです。

発表をする中村准教授

 現在、休天神が鎮座する場所には、かつて明石駅家(あかしのうまや)があったと考えられています。「駅家」とは旅の途中で新しい馬に乗り換えたり、宿泊をするため、官道沿いにつくられた施設で、飛鳥時代~平安時代にかけて朝廷によって全国に整備されました。兵庫県では駅家の考古学的調査が熱心に行われていますが、近年の発掘成果により、休天神は明石駅家の跡地に建てられたことが確実視されるようになっています。

 菅原道真の詩集『菅家文草』には、888年、道真が讃岐守として現在の香川県に赴任する際、明石駅家に立ち寄って詠んだ「駅楼の壁に題す」という漢詩が収められています。道真は実際に休天神のあたりに来たことがあったのです。また平安時代の歴史物語『大鏡』には、大宰府に左遷される際にも明石駅家に立ち寄り、その姿に驚いた駅長に「駅長 驚くことなかれ時の変改、一栄一落 是れ春秋」(駅長よ、時世時節の移りかわりに驚くまい。春になれば花が咲き、秋になれば葉は散る。栄えた者は、いつか亡ぶのだ)という詩を与えた、という話が記されています。これはおそらく後世作られた伝説ではないかと思いますが、道真に対する信仰が高まっていたひとつの証拠でもあります。

 明石ではこの『大鏡』の伝説がひろく信じられていたようです。いつのころからか、現在の休天神のあたりにあった「道真が腰を掛けた石」(踞石)が人々の信仰を集め、小さなほこらが作られました。伝承によると、最初にこの石をまつったのは『大鏡』に出てくる例の駅長であり、石の表面には道真の「歯を漱ぐ幽人の意、相看るに太だ憐れむべし」という漢詩が浮き出していたのだとか。現在もこの石は休天神の本殿前にまつられていますが、残念ながら詩の文字は見えないようです。

 さて、それでは現在の、あの立派な休天神社はいつごろ作られたものなのでしょうか。境内に明石市が立てて掲示板には「延宝七年(1679)、明石藩主 松平信之が……この祠[引用者注:踞石をまつった祠]のあるところに神社を建てたのが休天神のおこりである」と説明してありますが、これはあまり正確ではありません。

 休天神の本殿横には「播磨国明石菅神廟記碑」(はりまのくにあかしかんじんびょうきひ)という古い石碑があります。石碑そのものは1859年に作られたものですが、そこに彫られている文章は、1675年、当時の明石藩主であった松平信之が、幕府に仕える林鵞峰という儒学者に依頼して休天神建立のいきさつをまとめてもらったものです。

播磨国明石菅神廟記碑

 現在、この石碑の存在はあまりひろく知られているとは言えません。しかし休天神の由緒を考える上ではきわめて重要な資料です。そこで2026年2月、神社を管理している方に許可を得て、石碑を調査しました。その結果、いろいろなことが明らかになりました。

 石碑によれば、道真が大宰府で亡くなったという知らせを受けた駅長は、悲しみのあまりほこらを作って踞石を祀ります。ところが長い時間がたち、戦乱が起こったこともあって、ほこらは廃絶してしまった。そこで、江戸時代前期にほこらを再興しようという話が興ったと言います。

 石碑にはそのときの様子が「邑民ら懐古の志を抱き」と記されています。「邑民」とは村人、つまり大蔵谷に住む一般の人々を指しています。休天神は藩や武士たちの力によって造られたものではなく、もともと地域の人々が寄附を募り、自分たちの力で再興した神社なのです。もちろん実際には藩主であった松平信之や武士たちからも寄附を受けていますが、あくまで発端となったのは「邑民」たちの企画であって、この点で掲示板の「明石藩主 松平信之が……神社を建てた」という説明はあまり正確とは言えません。

当日の発表用スライドから

 また、石碑の末尾には「延宝乙卯之冬」、西暦に直せば1675年冬という日付が記されています。石碑の文章は、内容から考えて休天神の竣工にあたり、その経緯をまとめたものと考えられます。つまり、1675年冬にはすでに休天神の建物は完成していた可能性が高い。実際、このほかにも翌1676年4月に神具を休天神に寄附したという証文が残っています。神社がないのに神具だけ寄附するというのは、ちょっと考えづらい状況です。明石市の掲示板には「延宝七年(1679)、……神社を建てた」と記されていますが、これは明らかな誤りで、1675年か、遅くても1676年には休天神社が完成していたはずです。

 休天神は現在でも、神職の管理する神社ではありません。地域の人々が中心となって境内、社殿を管理し、季節のお祭をされています。もともとが大蔵谷の「邑民」によって造られた神社であったため、その考え方が現在にまで引きつがれているのです。単に歴史的な遺跡であるというだけでなく、地域の人々の手によって造られ、守られているということが、何より重要な休天神の「価値」なのではないでしょうか。

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