2025年11月16日(日)、あかし教育研修センター中学校社会科講座が主催するフィールドワーク「林崎掘割を歩く」が開催され、地域研究センター(人文学部)の大西教授、矢嶋教授、中村准教授が参加し、解説を担当しました。
林崎掘割は1658年、林崎6ヶ村(和坂村、鳥羽村、林村、東松江村、西松江村、藤江村)の願い出により、明石川上流の水を引いて作られた掘割(水路)です。現在の神戸市西区平野町から明石市明南町まで総延長は5.3kmに及び、長らく農業用水、飲用水として利用されてきました。明石市では小学校用の社会科副読本『わたしたちの明石』に掲載されていることもあり、高い知名度を誇ります。
秋晴れの好天の下、JR明石駅に集合した一行はバスで西戸田(神戸市西区平野町)に移動。まずは明石川(江戸時代には押部川とも呼ばれた)に設けられた取水口「中湯(中湧井堰)」を見学しました。中湯は川に堰を設け、人工的に水位を増すことで掘割(水路)に導水する仕組みで、現在でも地域の人々によって大切に管理されています。

林崎掘割には西戸田の中湯(1658年設置)のほか、さらに上流の黒田(神戸市西区、1708年設置)にも取水口が設けられており、こちらは上湯と呼ばれています。中湯から数十メートルほど離れた地点で、上湯の水と中湯の水は合流します。合流地点には水量調整のためのゲートが設けられていました。

1.5メートルほどの幅となった水路は西戸田地域を西へと貫き、国道175号線を越えて印南野台地の東端にいたり、ここから丘陵地の裾を縫うようにして進路を南に取ります。周辺には山中から流れ出る水源を利用した用水路も存在するため、これらと林崎掘割を立体交差させ、増水時には掘割の水を用水路に流し込むための工夫が凝らされたゲートも存在します。

掘割が福知川を過ぎるあたりから印路地域(神戸市西区平野町)に入ります。山中から明石川へと注ぐ福知川は、林崎掘割とほぼ直角に交差するため、福知川の川底をくぐるようにして掘割が流れています(前川橋付近)。この仕組みを「伏樋」といい、江戸時代の資料によると林崎掘割の流域数ヶ所に設置されたようですが、現在ではおそらく福知川に残るのが唯一の例でしょう。石造りのトンネル(暗渠)のようになっており、すでに江戸時代から、耐久性を考慮して石製が採用されていたとのことです。

印路の掘割沿いには「乳女郎大明神」と呼ばれる小祠があります(神戸市西区平野町印路字畑屋敷198)。祠の前を流れる掘割には乳女郎橋という橋が架けられ、古くから掘割の絵図などに記されています。祠にある丸い石を授かって帰ると乳の出がよくなるとされ、お礼参りをするときに石を持参するのがしきたりだったとか。粉ミルクのない時代、乳の出はときに乳児の生死を左右する問題でした。昔の人の深い信仰心が見て取れます。
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このあと、掘割は薮のなかに入り、江戸時代の掘割はかくもあったかと思わせるような道すじが続きます。途中には掘割の水を急勾配で切り落とし、丘陵の下に広がる田畑に流し込む「刎樋」という施設が見られ、流域の村々でも掘割の水が活用されていた様子がうかがえます。

刎樋の周辺は、江戸時代、中村と呼ばれ(現在では平野町中津に含まれる)、林崎掘割が掘削される際には、水を利用する下流の村々とのあいでさまざまな交渉を行っています。中村で庄屋をつとめた藤田家には、和坂村をはじめとする林崎6ヶ村が掘割普請に際して提出した誓約書が残されています(現在は明石市立文化博物館蔵)。今回のフィールドワークでは同家も見学しました。

西区平野町中津に入ったあたりには、山中に中津住吉神社と軍度山良勝寺が肩を並べるように立ち、その前の掘割には合計三つの橋がかかっています。いずれもさして大きくはない橋ですが、これは明治時代の絵図に「宮橋」「元宮橋」「寺橋」と記されている橋ではないかと推測されます。
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一行は良勝寺で小休止したのち、さらに掘割をたどって歩を進めました。昼近い時刻でしたが、幸いに日差しは暖かく、11月とは思えない陽気に足取りも軽くなります。掘割は薮や山林のなかを抜け、明石川よりも相当高い場所を流れてゆきます。やがて第二神明道路との交差にさしかかり、掘割は道路の下をくぐってさらに下流へと続いてゆきます。掘割の隣には人が通行するための隧道もうがたれていました。


中津地区を抜けると、掘割は明石市域に入り、終点である「鳥羽六郷」に至ります。ここには古くから、掘割の水を和坂村、鳥羽村、林村、東松江村、西松江村、藤江村に分水するための分水口(のちに鳥羽新田村が追加される)が設けられており、「六郷」という地名も本来は「六合」(六つの分水口)という意味ではなかったかと想像されます。1708年、林崎掘割がさらに延長され、野々上、西浦部地域の13ヶ村にまで水が配られるようになると、従来の分水口の手前(上流)に「旧来の6ヶ村(と鳥羽新田村)分」と「新規の13ヶ村分」を分水する新たな分水口が作られます。この二つの分水口が隣接して設けられているところに、鳥羽六郷のユニークさがあります。

現在では、最初につくられた「六合」の分水口は大きく改修され、隣接する野々池貯水池に掘割の水をポンプアップするための施設が作られています。しかし鳥羽六郷が林崎掘割の終着点として象徴的な意味を持っていることは、今も、昔も変わりません。1739年、この地に林崎掘割の歴史を伝えるための「林崎掘割渠記碑」(明石市指定史跡、明石掘割土地改良区所有)が建てられました。筆を執ったのは明石藩に仕えた儒者・梁田蛻巌です。

今回のフィールドワークでは、最後にこの林崎掘割渠記碑の前で中村准教授が掘割の歴史や碑文の内容について解説を行いました。中村准教授は大西教授らと協力して今年7月に明石掘割土地改良区の所蔵する掘割関係の史料を調査し、従来ひろく知られていなかった重要史料の存在をつきとめ、本学図書館ギャラリー展示「明石を描く文学 明石で描く文学」のなかで展示、紹介しました。また同展示にあわせて制作された解説のパンフレットでは林崎掘割渠記碑を全文にわたって注釈、現代語訳しています。いずれも所属する地域研究センターでの研究活動に基づく成果であり、「今回、フィールドワークの場でひろく参加者と共有することで、学術的成果を地域に還元し、貢献するという、センターの使命を果たすことができたのではないか」と語っていました。

今回のフィールドワークは、あかし教育研究センターに関係する社会科教員の方々が中心となって企画、実施されました。社会科教育学を専攻する大西教授、地理学を専攻する矢嶋教授も参加されたことで、地域の教育を担う先生方との交流が深まったことは大きな成果であると考えています。今後、地域学習の場で、神戸学院大学や地域研究センターの研究成果が積極的に活用されてゆくことを願ってやみません。

一行は、午後1時ごろ、林崎掘割渠記碑の前で記念撮影を行い、解散しました。秋の一日、有意義な体験を共有でき、地域の過去、現在、未来を考える機会を得たことは、何ものにも代えがたい成果であったと考えます。
