2025年11月26日(水)、人文学部の「兵庫の文学」「基礎演習」の合同授業として、地域研究センターの協力により、国文学を専門とする中村健史准教授が特別展示「明石を描く文学 明石で描く文学」のミニレクチャーを行いました。

「明石を描く文学 明石で描く文学」は今年9月4日(木)から本学ポーアイ図書館で実施された展覧会です。好評のなか11月4日(火)に閉幕しましたが、ポートアイランドキャンパスでの展示であったため、有瀬キャンパスに所属する学生の多くは参観の機会に恵まれなかったようです。そこで地域研究センター(人文学部)の中村准教授の発案により、展示物を有瀬キャンパスに運び、人文学部生向けの特別展覧を実施することになりました。当日は100人近い学生が参加し、教室は思わざる賑わいを見せました。
明石は古くから歌枕として名高く、『万葉集』『菅家文草』『源氏物語』『平家物語』などに登場します。しかし、それ以上に特筆すべきは、こうした古典の記載をもとにさまざまな「文学遺跡」が作られていったことでしょう。すでに鎌倉時代の終わりごろには、明石を訪れた万葉歌人・柿本人麻呂の墓と称する遺跡(人丸塚)があったようです。時代とともに人丸塚は神社へと発展し、江戸時代には明石藩主・松平信之によって由緒を記す石碑(亀の碑)が建立されました。現在、明石市内で「人丸さん(人丸山)」として親しまれている柿本神社です。
『源氏物語』に登場する浜の館(光源氏のすまい)、岡辺の宿(明石の上のすまい)にも石碑が建てられました。信之の父・松平忠国は文芸、和歌にたしなみがあったらしく、いずれも彼の発案によるもので、石碑には自作の和歌が刻されています。明石で討ち死にしたと言われる『平家物語』の武将・平忠度の墓(忠度塚)にも忠国の歌碑が建てられました。菅原道真が太宰府に左遷される途中、立ち寄ったとされる明石駅家の跡には信之が「休天神(明石天満宮)」という神社を再興しています。
中村准教授はさまざまな古典籍を紹介しつつ、こうした「明石の文学史」を解説した上で、さらに「明石「を」描いた文学だけでなく、明石の人が描いた明石の姿、つまり「明石で描いた」文学にも重要な意味がある」と述べ、その例として梁田蛻巌の詠んだ漢詩を紹介しました。
蛻巌の弟子のひとりに清田儋叟がいます。すぐれた才能を持ちながら、病のため脚疾を負うた儋叟は30歳を過ぎても仕官することができず、親がかりの身でした。蛻巌の詩文をまとめた『蛻巌集後編』には蛻巌が儋叟に送った詩や手紙がいくつか収められていますが、そのなかに「早春、清君錦(儋叟)が客居に寄す」と題する五言詩があります。寛延2年(1749)、77歳になった蛻巌は「自分はもはや老いたので、庭を眺めて過ごす隠居の身。しかし梅花や春寒の月をともに愛でる仲間はいない」と嘆きつつ、「君も来て、この石の手すりにもたれ給え」と詩によって儋叟を誘います。
この詩の冒頭には蛻巌の自注があり、儋叟は才識すぐれた人物だが「脚に障害があるため、藩に仕えることができず、浪人している」と記されています。志を得ない儋叟の無念さを思い、蛻巌は「自分も世の中から忘れられたような隠居の身。栄達がすべてではない。ともに風雅を楽しもう」と詩によって慰めたに違いありません。蛻巌のやさしくあたたかな人柄、儋叟への深い愛、繊細で文人らしい心づかいが伝わってくるような詩です。
文学にはさまざまな役割や効能がありますが、このように苦しくつらい現実を乗り越えるための視点を提供することも可能なのです。蛻巌のようなすぐれた詩人が、文学の本質に迫るような作品を明石で書いたことを、わたしたちは記憶にとどめておくべきではないでしょうか。
