2017年度第2回大蔵谷ヒューマンサイエンスカフェを開催しました。8/2

 2017年8月2日(水)の18時から、第2回大蔵谷ヒューマンサイエンスカフェを開催しました。16名の参加者がありました。今回は、人文学部で映像学を専門としている上田学が、「明治大正時代の映画館」というテーマで話をしました。

大蔵谷ヒューマンサイエンス17年度第2回

 全体として、無声映画時代の日本の映画館について、主に建築の様式から、その文化の変遷を解説していきました。映画館のような、人々にとって当たり前のように存在しているマス・カルチャーは、却って資料が残りにくく、当時の文化の全容を把握することは難しいものです。建築様式を示す平面図を資料として用いることは、そのような失われた失われた文化を理解するための一助となります。

大蔵谷ヒューマンサイエンス17年度第2回

 日本映画は、19世紀末に誕生してから、様々に表現の形式を変えて、現在に至っています。そのような形式の変化は、映画館の建築様式の変遷とも結びついています。1896年にアメリカ合衆国から、翌年にフランスから、相次いで神戸に映画が輸入されます。その後、1903年に日本初の映画館、電気館が東京浅草に誕生しますが、その建築様式は見世物小屋を改装したものでした。それは、同時代の映画が見世物の表現形式をもっていたことと密接に関連しています。電気館は、1909年に大規模な改築がおこなわれ、今度は芝居小屋を模した建築様式へと変化します。これは同時期の日本映画や輸入映画が、見世物的な表現から、演劇的な表現へと変化していったことと結びついています。

大蔵谷ヒューマンサイエンス17年度第2回

 大正期に、映画が演劇的な表現から離れて、映画独自の様々な表現形式を発展させていくなかで、映画館もまた、スクリーンの映像を純粋に楽しむことができる建築様式へと変化していきます。その後、1930年代に、日本映画は無声映画からサウンド・フィルム、いわゆるトーキーへと変化していきます。トーキー化にともなうラウドスピーカーの設置は、数百人の収容に限られていたサイレント時代の映画館の建築様式を、日本劇場に代表される数千人の規模へと、格段に拡大させていくことになりました。このように、映画館の建築様式は、映画の表現形式と密接に結びついて変遷したのです。
 
                                       (文責 上田学)

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