2017年度第6回大蔵谷ヒューマンサイエンスカフェを開催しました。2/21

 2018年2月21日(水)の18時から、第6回大蔵谷ヒューマンサイエンスカフェを開催しました。11名の参加者がありました。今回は、「近代劇と女優ー貞奴と須磨子を手がかりに-」というテーマで、本学人文学部教授の伊藤茂が話をしました。

大蔵谷ヒューマンサイエンス17年度6回

 ご存じのように歌舞伎の創始者、出雲の阿国は女性でした。しかし、1629年に遊女歌舞伎が禁止されてより、明治時代まで女性は舞台に立てませんでした。その間、女優に代わって、男性が「女形」という独特な演技スタイルで女の役を演じていました。
 明治になって、西欧の演劇が紹介されるにつれ女優の重要性が認識されるようになります。演劇の近代化を成し遂げようとするとき、女優はどのようにして生まれたのか?その先駆けだった川上貞奴と松井須磨子を手がかりに、近代劇と女優の関係を追っていきます。

大蔵谷ヒューマンサイエンス17年度第6回

 明治20年ごろ、それまでの歌舞伎に対抗して新しい演劇(新派劇)が誕生します。初期の新派劇は自由民権運動と関係して政治的主張を含んだものでした。多くの劇団が生まれる中、川上音二郎が川上一座を旗揚げし、社会風刺を盛り込んだオッペケペー節で人気を博します。その音二郎の妻が貞奴でした。彼女は日本橋芳町の人気芸者でした。
 結婚後、川上一座は成功と失敗を繰り返しますが、1899年にアメリカ巡業を企画し、太平洋を渡ります。その旅の途中、劇団員が不足したためやむなく貞奴が舞台に立ちます。貞奴の美貌と芸の巧みさは、たちまち海外のプロデューサーの目に留まり、パリ万博に招かれて公演。そこでも大成功をおさめ、貞奴は一躍パリ社交界の花形になります。
 帰国後、川上一座は「正劇」と称して外国演劇の本格的な上演を目指すのですが、貞奴は常に一座のトップ女優でした。近代日本の本格的な女優は彼女から始まったと言っていいでしょう。貞奴は音二郎の死後も女優を続け、1918年に舞台を引退します。

大蔵谷ヒューマンサイエンス17年度第6回

 川上一座が「正劇」を始めたころ、坪内逍遥を中心に文芸協会が発足します。当初は文化芸術全般の改革を目指していましたが、やがて島村抱月ら若い研究者たちとともに演劇に特化した活動を始めます。そして新たに俳優の養成も開始します。そこに応募してきた一人が松井須磨子でした。逍遥らは、松井須磨子を女性の自立と開放をテーマにした「人形の家」のノラに抜擢します。彼女が演じたノラは、日本の女優の可能性を見出した点で高く評価されました。ただ、この公演の稽古中、演出家の島村抱月と須磨子が恋愛関係になり、ことに抱月には妻子がいたため大きなスキャンダルとなって、二人は逍遥から除名、破門されてしまいます。

大蔵谷ヒューマンサイエンス17年度第6回

 その後、抱月と須磨子は劇団「芸術座」を旗揚げし、芸術性と商業性の両立を目指した演劇活動を始めます。抱月の優れたプロデュース力によって順調に活動を場を広げ、また須磨子も人気女優となっていきました。しかし1918年、スペイン風邪によって抱月が急逝し、その翌年、須磨子が後追い自殺を遂げたことで芸術座の活動はあっけなく終わります。

大蔵谷ヒューマンサイエンス17年度第6回

 当日は、上記の歴史時間的流れについて、多くの写真や映像を音源を交えながら、できるだけ具体的なイメージをつかんでいただけるようにしました。
 そのうえで、後日談的に築地小劇場の女優、東山千栄子と山本安英の舞台映像を紹介しました。なぜなら、貞奴引退の6年後、須磨子の自殺の5年後に築地小劇場がスタートしているからです。築地小劇場は日本の新劇の本格的スタートとして、それまでの演劇と一線を画すと考えるのが定説ですが、しかし実際には旧世代と思われていた貞奴や須磨子とわずか5~6年しか間が開いていないとすれば、彼女たちと築地小劇場の女優たちとは本当に非連続だったのか、と新たな疑問が湧いてくるのです。
                                           (文責 伊藤茂) 

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