2018年度第1回大蔵谷ヒューマンサイエンスカフェを開催しました。5/30

 2018年5月30日(水)の18時から、第1回大蔵谷ヒューマンサイエンスカフェを開催しました。21名の参加者がありました。今回は、「忘れられた明石八景-俳諧師・西山宗因-」というテーマで、本学人文学部准教授の中村健史が話をしました。

大蔵谷ヒューマンサイエンスカフェ18年度第1回

 ○○八景という言い方は、もともと中国の「瀟湘八景」がもとになっています。日本には鎌倉時代の終わりごろに伝わり、「近江八景」をはじめとして各地で八景をつくるのが大流行しました。今は忘れられていますが、じつは明石にも「明石八景があったのです。

大蔵谷ヒューマンサイエンスカフェ18年度第1回

 最初に思いついたのは、どうやら当時の藩主・松平信之
(1631-86)だったようです。新田開発や治水事業によって明石では今でも名君と慕われる人物ですが、彼は文化的なことがらにも関心が深く、1669年、幕府の儒官であった林鵞峰
(1618-80)に依頼して「明石八景」を選ばせています。
 さらにその三年後、信之は当時俳諧師として有名だった西山宗因(1605-80)を明石に呼びよせ、「明石山荘記」という文章を書いてもらいます。鷹狩りに招いて、郊外にあった別荘を自慢したらしい。その末尾に明石八景の句が添えられています。

大蔵谷ヒューマンサイエンス18年度第1回

 はじめは、仙廟旦霧。
 これは人丸神社の朝霧という意味です。宗因の句は「朝霧に隠れぬ浦の昔かな」(朝霧も隠すことのできない明石の浦の古え)。『古今集』にある柿本人麻呂の歌「ほのぼのと明石の浦の朝霧に島隠れ行く舟をしぞ思ふ」を踏まえています。

 次は、大倉(蔵)暮雨。
 「空や雨谷の名に立つ夕霞」。空に降る雨は夕霞を呼びよせるので、大蔵谷という地名のとおり、谷を真っ暗にしている、と地名を掛詞にしています。

 三つ目は、藤江帰帆。
 藤江は鹿の瀬の古名と言われています。「たそがれの藤江や春の港舟」(藤は暮春に咲くというが、その名のとおり藤江の舟も夕暮れには港に帰ってくる)。白居易の「紫藤の花の下に漸く黄昏たり」(藤の花のもとに春の最後の一日が暮れてゆく)という詩を踏まえています。

 四つ目は、清水夕照。
 この「清水」は野中の清水(神戸市西区岩岡町)のことです。「結ぶ手に夕日を返す清水かな」。清水を手にすくうと、そこに夕日が反射している、という句ですが、漢語「返照」(夕日のこと)を上手に詠みこんでいます。技ありの一句ですね。

 五つ目は、印南(いなみ)鳴鹿。
 「印南野は籬に鹿の鳴く音かな」。印南野は鹿の名所だけあって、家の垣根のすぐそばまで鳴き声が聞こえる、の意。

 六つ目は、絵島晴雪。
 絵島は淡路の岩屋港にある小島です。「昔ながら絵島を乗する小舟かな」。これはぼくにはちょっと理解がゆきとどきません。直訳すれば「雪ごと絵島を載せている小舟だなあ」という意味なのですが….。

 七つ目は、尾上晩鐘。
 加西市の尾上神社のあたりです。鐘の名所として有名でした。句は「花は根に鐘は尾上の夕かな」(散った花は木の根元に、鐘の響きはそれを撞いている尾上へ、それぞれ帰ってゆく)

 最後は、明石秋月です。
 「月もこのところや思ふ明石潟」。月も土地柄を考えて、明々と明石の浦に照っているという、またしても地名の掛詞です。ただし、『源氏物語』の明石の巻には、皎々と照る十三夜が印象的に描かれていますから、この句はそれを踏まえているのではないでしょうか。一句目の人麻呂と対応させるねらいがあったのでしょう。

大蔵谷ヒューマンサイエンス18年度第1回

 ○○八景というとき、現在では地名のみを挙げることも少なくありませんが、江戸時代以前は「地名と、その場所がもっとも美しく見える状態」をともに紹介するのが普通でした。たとえばただ「明石」というだけでなく、明石という場所がもっともきれいに感じられるのは「秋月」のときだから、「明石秋月としよう、というふうに。
 ですから「明石八景」は単に地名を列挙したものではなく、当時の人々が明石という土地をどのように眺めていたか、ということを教えてくれる資料でもあります。今は忘れられた「明石八景」ですが、ぜひとも多くの人々に知っていただきたいと思います。
                                          (文責 中村健史)

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