2019年度第1回大蔵谷ヒューマンサイエンスカフェを開催しました。5/22

 5月22日(水)、第1回大蔵谷ヒューマンサイエンスカフェ明石の文学シリーズ第1回として、「新元号『令和』と明石」を開催しました。地域の方が14名参加されました。

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 新しい元号「令和」は『万葉集』に収められた「梅花歌三十二首」の序文を典拠としています。当時、北九州にあった大宰府には、大伴旅人や山上憶良など優れた歌人が集まり、和歌の催しが頻繁に行われていました。「梅花歌三十二首」もそうした環境のなかで詠まれた作品で、土地柄、また旅人たちの好みによって、中国文化の色濃い影響を受けています。

 たとえば、話題となった「時に、初春の令月、気淑しく風和らぐ」の一節。「国書(日本で作られた書物)を典拠とする元号は初」と話題になっていますが、これもまた「仲春の令月、時和し気清む」(張衛「帰田賦」、『文選』巻十六所収)、 「天朗らかにして気清み、恵風和暢す」(王義之「蘭亭序」)といった中国文学の表現に学んだものです。彼らは自分たちの文化にせまく閉じこもるのではなく、ひろい視野に立って、旺盛に海外の言葉や表現を取り入れようとしていたのです。

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 さて、大宰府での生活は旅人個人にとっても大きな意義を持つものでした。このころの旅人には「わが盛りまたをちめやもほとほとに奈良の都を見ずかなりなむ」(『万葉集』巻三・三三二)、わが命はふたたび若盛りの年に立ちもどることがあるのだろうか、もしかすると奈良の都を見ずに終わりそうだ、といった歌があります。みずからの人生を深く見つめ、命のはかなさをうたう作品です。
 
 大宰府に赴任した年、旅人は妻を亡くしています。当然、そのことは彼の文学に大きな影響を及ぼしたことでしょう。しかし、これほどまでに孤独な味わいが生まれてくる背景には、ほかの理由もあったように思うのです。

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 旅人が九州での任を終え、都に帰るとき、扈従した人の詠んだ歌が『万葉集』には残っています。「家にてもたゆたふ命波の上に浮きてしをれば奥か知らずも」(巻十七・三八九六、作者未詳)。家にいても定めなくゆらぐ命。船の上にいると、いっそうたゆたうように、行きつく先も分からないような不安を感じる―。

 当時の人々にとって、旅は苦しみそのものでした。陸路を歩くか、船に乗るしかないため、肉体的な消耗から病を得ることはめずらしくなく、『万葉集』にも旅の途中で亡くなった人の姿が登場します。飢えや遭難、難破などの危険も、現代よりはるかに身近なものだったでしょう。何より人々の生活範囲が格段にせまかった時代、まったく見知らぬ「異界」へ足を踏み入れる恐怖は大きかったと思います。

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 そうしたなかで彼らは、自分という存在がいかにかけがえのないものであるか、痛烈に実感したのではないでしょうか。ふるさとの村落社会から切りはなされ、ひとり「異界」と対峙せざるをえなくなったとき、万葉人ははじめて「自分は自分であって、ほかのだれでもない」という感覚を持ったのだと思います。

 旅の途中で危険な目にあえば、死ぬのは自分であって、それを肩代わりしてくれる人はいない。故郷にいたときは、「家」にくるまれ、家族に守られ、村落社会の一員であることに甘んじて、意識したことすらなかった「自分」が、実ははかなく、もろく命しか持たない弱い存在である、と旅は気づかせてくれる。

 旅人の歌を深めたのは、そうした旅の経験だったのではないでしょうか。残念ならが、大宰府へ向かう道中で旅人がどのような作品を作ったかはわかりません。しかし、それがしみじみとした抒情と、胸をしめつけられるような悲しみに満ちた和歌であったろうことは容易に想像できます。旅によって、彼は「たゆたふ命」を見出したのだと思います(山本健吉『詩の自覚の歴史』)。

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 さらに想像をたくましくすれば、このとき大きな役割を果たしたのが明石であったに違いありません。『万葉集』を見ると、旅ゆく歌人たちは繰りかえし、明石から西へゆく悲しみ、西から旅をしてようやく明石にたどりついた喜びをうたっています。有名な柿本人麻呂「灯火の明石大門に入らむ日や漕ぎ別れなむ家のあたり見ず」「天離る鄙の長道ゆ恋ひ来れば明石の門より大和島見ゆ」(巻三・二五四、二五五)などは、その代表例です。
 
 明石は播磨、須磨は摂津に属します。当時の人々の意識では、摂津(須磨)までが畿内(都の周辺地域)であり、播磨(明石)からは鄙の地(いなか)でした。明石は「異界」の入り口であり、だからこそ旅の悲しみや喜びをつよく感じる場所だったのです。

 旅人もおそらくはこの明石沖で、悲しい旅の歌を詠んだことでしょう。そしてそれをきっかけにして、みずからの命を見つめ、新しい、深々とした歌境をひらいていったのではないでしょうか。大宰府における旅人の歌人的成長には、明石が大きな影を落としていると想像する所以です。
                            (文責 中村健史)

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